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  工場の申し子・合理化の鬼  
  豊田英二[とよだえいじ]  
  (1913〜)  
 

1913年愛知県生まれ。トヨタグループの創始者豊田佐吉の弟・平吉の次男。33年豊田自動織機製作所内に従兄弟の豊田喜一郎(佐吉の長男)が自動車部をつくったのに誘われ、東京帝国大学工学部機械科の学生のままこの仕事を手伝う。

36年卒業と同時に豊田自動織機製作所入社。37年トヨタ自動車工業の分離独立に伴い転籍。45年取締役技術部長(31歳)。49年末、トヨタは実質的倒産状況に陥り、その責任を負って初代社長の豊田利三郎、二代目社長で実際の創業者だった豊田喜一郎がともに退陣。50年にトヨタ自動車工業がトヨタ自動車工業(社長・石田退三)とトヨタ自動車販売(社長・神谷正太郎)に分離した際に、英二はトヨタ自動車工業の常務となる。53年専務、60年副社長を経て、67年中川不器男社長の急死で社長に就任。国産技術中心主義に徹し、トヨタを利益日本一の会社にする。

72〜79年日本自動車工業会会長。84〜90年経団連副会長。82年トヨタ自動車工業とトヨタ自動車販売が合併し、トヨタ自動車となる。英二は会長に、社長には喜一郎の長男・豊田章一郎が就任。92年取締役名誉会長、94年名誉会長就任。94年には日本人として2人目のアメリカ自動車殿堂入り。

 
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