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  島津製作所二代目社長、日本電池創業者  
  二代目島津源蔵[しまづげんぞう]  
  (1869〜1951)  
 

島津製作所二代目社長で、日本電池の創業者。小学校もろくに出ていないのに、独学で理化学を学び、レントゲン機器、蓄電池、顕微鏡、マネキン人形などを製造し、1930(S5)年には日本の十大発明家の一人に選ばれており、京都ハイテク産業の先駆者である。
その他、事業化しなかったり、早期で撤退した事業に、日本で初めてのプロジェクター(幻灯機)、電球、扇風機、モーター、そして自動車エンジンなどがある。

1869(M2)年6月17日、京都市で初代源蔵の長男として生まれる。幼名は梅次郎。1875(M8)年、父・初代源蔵が京都・木屋町に島津製作所を創立。1884(M17)年、16歳で国内初の感応起電機、ウ式感応起電機を完成させ、学者たちから称賛を受ける。

1894(M27)年、父・初代源蔵死去、25歳の若さで家督を相続し、二代目源蔵を襲名、社長に就任する。1896(M29)年、レントゲン博士がレントゲンを発見した10ヶ月後に日本で最初にエックス線写真の撮影に成功。1897(M30)年、蓄電池の製造に着手。1905(M38)年、日本海海戦で同社製の蓄電池使用。1917(T6)年、蓄電池工場を分離独立させ日本電池を設立。商標のGSはGenzo Shimadzuの頭文字GSを取ったものである。その後、電池の塗料部門からは大日本塗料が、蓄電池利用のフォークリフトの日本輸送機(現ニチユ)などが生まれた。

1920(T9)年、産業用大型蓄電池のための、易反応性鉛粉製造法を発明し、日本だけでなく、アメリカ、イギリス、フランス、ドイツなどでも特許を取得。1923(T12)年、日本初のマネキンの生産開始。1930(S5)年、日本の10大発明家の一人にビタミンBを抽出した鈴木梅太郎、真珠の御木本幸吉、特殊合金の本多光太郎などと共に選ばれ昭和天皇の賜餐(ぎょさん)の栄にあずかる。

1939(S14)年、社長を退き、会長に。1951(S26)年10月3日、逝去。享年82歳。島津源蔵の発明考案は、生涯を通じて178件に及んだ。

 
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