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  クレイフィッシュ社長  
  松島庸[まつしまいさお]  
  (1973〜)  
 

1973年11月6日生。1995年9月、武蔵野大学経済学部中退。同年10月潟Nレイフィッシュを設立し中小企業が自社のサーバーを持たずに電子メールなどを使えるようにするホスティング事業を手がけ、販売業務を筆頭株主の光通信に委託して2000年5月には顧客数が7万件に急増、未開拓だった中小企業市場で先行した。

2000年3月には26歳という若さで東証マザーズと米店頭株式市場(ナスダック)との同時上場を果たし、一躍、世間の脚光を浴びる形となる。ネット・バブルの頂点での上場に加え、上場企業としては史上最年少社長の誕生ということもあり、上場当初は時代の先端を行くネット・ベンチャー企業として持て囃され株価も高騰、ナスダックでの公開初日には126ドルの高値をつけ上場時の公募増資で246億円もの資金を市場から調達した。

しかし上場は果たしたものの、その後のネット・バブルの崩壊と共に市場での評価も株価と同様に急落し、米国ではナスダック上場時に十分な情報開示を行わなかったとして集団訴訟も起こされ、光通信の体質に社会が厳しい目を向け始めると同社経由の契約の解約率が急上昇し売上高は伸び悩み、赤字幅は拡大という悪循環のなかで、イメージの悪化も含めて将来に危機感を強めた松島社長は、2000年11月に販売を担当していた光通信との提携を解消するいう方向転換を行うが、結果的には光通信に代わる自力での営業網作りや販売チャネルの開拓も進まず、全てが後手に回り顧客数は2000年6月以降減り続けた。
尚、米ナスダック市場に上場しているクレイフィッシュの預託証券(ADR)は同社の米国における監査法人となるプライスウォーターハウスが監査法人を辞任したことにより、2001年4月23日をもって売買停止となっており、その後も売買は再開されていない。

2001年4月4日には経営方針をめり松島社長と意見対立した監査役5人全員が辞意を表明。その後は大株主の光通信と経営路線をめぐって対立、松島社長は退任を求められ、これを拒否していたが、15日には松島氏が4月に都内のベンチャーキャピタルに、同社長に対する融資の担保として差し入れた個人保有のクレイ株式1000株(発行済み株式の9.82%)が行方不明となったことが判明し、18日、経営混乱の責任を取って社長を辞任した。
取締役6名中、5名を光通信が派遣し経営再建を図るがクレイフィッシュ、光通信ともに社会的な信用は下落していることから今後の経営再建の道のりは険しい。

松島氏は、2001年7月にブロードバンド向け企画会社を設立しブロードバンド事業で再起を目指している。社員は松島氏1人でスタートし、将来的にはクレイフィッシュの元社員などを雇用する方針。
新会社名は「エム弐拾八」(M28)。松島氏が自身の頭文字と、「2001年11月に28歳になるころには新会社を軌道に乗せたい」との思いから命名。資本金2000万円は、松島氏が外資系投資会社から調達した。

 
     

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