倒産寸前の鐘淵紡績に入社し、その再建に努め、工場の近代化や従業員の福祉向上を図って、後に「紡績王」「鐘紡中興の租」「鐘紡の事実上の創業者」と称賛され、衆議院議員として政財界の革新に尽力した。また経済界きって筆の立つ人物でもあった。 とくに注目すべきことは、武藤山治は「温情主義」の経営で知られる。女子工員らの悲惨な労働環境を改善し、寮制度・日本初の共済組合設置等福利厚生に尽力し、鐘紡をわが国有数の大企業に育てあげた。また、日本の近代資本主義を守るため、独立自尊の経営を求めてやまなかった。とりわけ政商を憎み、政官財の癒着を攻撃。自身の命をかけて、論争を仕掛けた。
1867(慶應3)年3月1日現愛知県弥富町の母の実家で生まれる。 1884(明治17)年慶応義塾卒。 1885(明治18)年渡米、サンノゼで苦学、タバコ製造所の見習い工として学ぶ。。 1887(明治20)年帰国、新聞広告取扱所を開業。英字新聞社入社・ジャパンガッゼット(現在のジャパンタイムズ)。後藤象二郎秘書として大同団結運動。 1888(明治21)年ドイツ系貿易会社に入社。 1893(明治26)年三井銀行入社、神戸支店副支配人になる。 1894(明治27)年倒産寸前の鐘淵紡績(鐘紡)入社。 1896(明治29)年兵庫工場操業開始。 1899(明治32)年鐘紡支配人に就任。 1906(明治39)年鈴木久五郎の鐘紡株買い占め事件。鐘紡退職。 1908(明治41)年鐘紡復帰、専務に就任。 1919(大正8)年ワシントンの第1回国際労働会議に雇主側代表として出席。 1921(大正10)年社長に就任。 1923(大正12)年政界の革新のため実業同志会(後に国民同志会)設立、会長に就任。 1924(大正13)年衆院選で当選(大阪市南区)、昭和5年までに三期当選。 1930(昭和5)年鐘紡社長辞任、相談役に就任。 1932(昭和7)年政界引退。時事新報社相談役に就任。 1933(昭和8)年社団法人国民会館設立、会長に就任。 1934(昭和9)年3月9日時事新報社に出社するため北鎌倉駅に向かう武藤山治が暴漢に襲われ、武藤をかばった書生が凶弾2発を受けて死亡。武藤は5発を浴び、倒れた。犯人もその場でこめかみに1発打ち込み、自殺。犯行に及んだ動機ははっきりしない。翌10日、武藤も鎌倉の病院で息を引き取った。数え年68歳。
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