|
生没年不詳。江戸前期の豪商。通称は紀文。紀伊国の生まれといわれ、故郷で産するミカンを江戸にはこび、帰りの船で江戸から塩鮭を上方に運送して財をなしたとつたえられる。
貞享年間(1684〜88)に江戸の京橋本八丁堀3丁目(東京都中央区)に材木問屋を開業。1697年(元禄10)ごろには老中柳沢吉保や勘定頭の荻原重秀とむすびついて、駿府の豪商松木新左衛門とともに、御用達商人として上野寛永寺根本中堂の用材調達をうけおった。下総(しもうさ)国香取社の普請用材なども調達している。こうした事業は巨利を生み、奈良屋茂左衛門とならび全盛をきわめた。日常生活でも金銭をおしまず、吉原で豪遊したため紀文大尽(だいじん)とよばれ、それも資力の宣伝効果となって商売上の信用を高めた。
しかし、1700年幕府御用達の特権をうばわれたうえ、柳沢・荻原らが引退したことで商売もふるわなくなった。さらに深川木場の火災で所有する材木を焼失したため、正徳年間(1711〜16)材木商を廃業。その後、浅草寺内のち深川八幡(東京都江東区)に閑居した。山東京伝の「近世奇跡考」(1804)によれば、34年(享保19)66歳で没したという。死後、元禄町人を代表する豪快な生きざまが、人情本や歌舞伎の題材に多くとりあげられた。
|
|