1900(明治33)年大分県日出町生まれ。東京遊学中、伝道師に預けられたことから牧師を志し、青山学院神学部卒業、さらに渡米してユニオン神学校、コロンビア大学に学ぶ。1929(昭和4)年の世界恐慌の発端となる株式市場暴落を現地で観察し経済問題に目を開かれ、帰国後経済界に入る。中外商業新報社『中外財界』、高橋経済研究所『高橋経済日報』各主幹等を務めたほか、第二次世界大戦中は重要産業協議会調査部長・事務局長。
戦後の1946(昭和21)年4月経済同友会結成を推進し常任幹事兼事務局長。1955(昭和30)年2月、米国の指導と援助のもと日本生産性本部(現、社会経済生産性本部)が設立された。米国政府は1億2000万円、日本政府が4000万円、財界が1億円の資金をつぎこんだ。郷司浩平が専務理事に就任、会長はその後経団連会長になる石坂泰三、副会長永野重雄、中山伊知郎、理事には足立正、有沢広巳、稲葉秀三、桜田武、植村甲午郎らの有力な財界人、有識者が名をつらねた。財界四団体、政府、支配層あげての生産性本部は、対米輸出主導型の経済発展戦略に、国民を総動員するための総司令部であった。とりわけ、そこに労働組合を引きこめるかどうかに成否がかかっていた。したがって、生産性向上運動の綱領、政治思想面、イデオロギー面が重視された。1968年理事長、1972年会長、1986年名誉会長。1989(平成1)年逝去。
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