1871年12月31日(旧暦では明治4年11月20日)、群馬県高崎に生まれる。同志社卒業後、明治の大ジャーナリスト徳富蘇峰が主宰する国民新聞社に入社し、明治33年、外報部長の時、蘇峰の推薦で当時の大蔵大臣松方正義の秘書官に転じる。しかし、3か月後、松方蔵相の辞職にともなって職を失し、1年間の浪人生活の後、松方の推薦により1901年(明治34)日本銀行に調査役として入行し、当時副総裁だった高橋是清に大いに能力を認められる。日露戦争中に外債募集のため高橋是清に随行、第一次世界大戦後の国際会議に出席し、金融恐慌(1927)や金解禁・再禁止問題に対処し、外国為替管理法の制定に尽力。
1935年(昭和10)に第13代日本銀行総裁に就任、私学出身として異例の地位に上った。1936(昭和11)年に起こった二・二六事件に際しては巧みに金融界の動揺を押えたが、その後軍事費増大による赤字国債の発行増には抗し得ず、昭和12年に総裁職を辞任し、貴族院議員、ついで枢密顧問官となった。意識と物質とが共通なる本源から発するとみる一元論にたち、自由と必然を確率の概念において統一しようとする独自の哲学的世界観をもち、通貨問題では国際的潮流を見通した経済理論をもつ優れた思想家でもあった1945年10月21日逝去。
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