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  鋼鉄王  
  アンドリュー・カーネギー[Andrew Carnegie]  
  (1835〜1919)  
  1835年、スコットランドに生まれる。1848年に移民として、一家とアメリカに渡る。まもなくペンシルベニア州アレゲニーにある木綿工場で、週給1ドル20セントの糸巻き少年としてはたらきはじめる。以後、ピッツバーグ電報局のメッセンジャー。ペンシルベニア鉄道の鉄道官の秘書兼電信技手、ピッツバーグ局の監督者と、順調に昇進。

あるとき鉄道の通る木橋が焼けて、数日にわたり鉄道が不通になる。その時カーネギーはこれからは鉄橋の時代だと将来を見通し、戦後、カーネギーは鉄道をはなれ、鉄橋をつくる会社を創設。その後さらに、ピッツバーグに最新式の製鉄工場(エドガー・トムソン工場)を設立し、アメリカでのベッセマー製鋼法の最初の利用者のひとりとなる。この事業は大いに成功し、ほかの大製鉄工場の支配権をも獲得していった。その利益はカーネギー製鋼会社に連結し、1899年にはアメリカの鉄鋼生産の約25%を支配する。1901年にモーガンがUSスチール社を創設すると、彼は2億5000万ドルでカーネギー製鋼会社を売却し、引退した。

カーネギーは公式の教育をあまりうけなかったが、本や教育に一生、関心をよせつづけた。生涯をつうじて、3億5000万ドル以上を教育、文化そして平和機関に寄贈しており、それらの多くの施設には彼の名が冠せられている。なかでもよく知られているのは、カーネギー技術スクール(現カーネギー・メロン大学)、カーネギー・ホールなどである。彼の最初の公的な贈り物は、1873年に故郷につくった浴場であった。 そして最大の贈り物は、1911年寄贈の、ニューヨークにカーネギー財団を設立するための1億2500万ドルであった。彼はまた、アメリカとイギリスに1700近くの図書館をおくった。そして、今は国連の国際司法裁判所となったオランダのハーグにある平和殿堂の建設のための資金も寄贈している。

1919年、83年に及ぶ生涯に幕を閉じた。墓碑銘に刻ませた言葉は「ここに、自分より賢い人々を、周囲に集める術を知っていた1人の人間が横たわる」だった。

 
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